7
しばし「もう駄目だ」という途方もない無力感と絶望感に襲われて、本気でどうしたら良いのかわからなかった。
いっそのこと、時間切れギリギリまで待つことにしようか(終了の三十分前までに校舎に入らないと「逃亡」が確定して最悪の罰ゲームの上にもう一戦追加になる)。それならスイッチを二つ押せれば最悪中の最悪だけは免れるだろう。それで万一に捕まっても、一時間ちょっとの間だけ耐えれば良いだけなのだから。
けれどもそんな甘い話で済むだろうか? ただレイプされるくらいで済むのかどうかも疑わしいものではある。
(ああ、どうしよう)
マナミは涙目で考え巡らせていると、次第に別の感情が頭をもたげてくる。それは運命の理不尽さへの怒りだった。
ろくに男も作らず「真面目ちゃん」で通して二十数年、初めて出来た彼氏は浮気者で馬鹿でどうしようもなかったから少しだけ付き合ってすぐ分かれたし、二人目も「身持ちが堅すぎる」などと言って軽尻女に走りやがった(三人目はまともに見えてカルト宗教の二世で自分から分かれた)。おまけに見た目も性格も良さげな男はたいがいみんな女がいる。マナミだって容貌も普通で(金かけずとも)身だしなみにも清潔に気を遣っているのに「暗い」だの「重い」だの「地味」だの言われ続け、周りが馬鹿に見えて本気で好きになれた男もいなかった。小学校時代から心の片隅にいた彼は見た目だけいい馬鹿女とデキ婚でくっついていて(なまじっか勉強せずに地元の学校に行くべきだった)、一度だけ出た同窓会では悲惨な気持ちになった(心のどこかで「もしかしたら」「いつかは」と思い続けて節操にこだわり続けた愚かしさを噛みしめたものよ)。
悲愴な冷たい炎が荒れ狂いながら全身を駆け抜けていくかのようだった。鬱積していた感情が喉からわけのわからない叫びになってほとばしり出ていた。
8
気がつくとマナミは、周囲を目で探していた。何を探しているのかわからなかったが、それを目にしてようやく衝動の理由を悟る。
まさしく火事場の閃きだった。
ありふれた木の棒。
それを手に持って、一階の窓ガラスを外から軒並みに叩き割り始める。どうせ時間はあるのだし、先に最後の脱出の準備をしておくのだ。縁に残った部分のガラスもきれいに落として、窓枠を乗り越えて逃げられるようにする(少しくらい手や足を切るくらいはこの際には覚悟して諦めるしかあるまいよ!)。
それにガラスの破片だらけの廊下であれば、そこで押し倒してゆっくりと凌辱を楽しむのは難しくなるはずだ。窓ガラスは平らで切り口が上を向きづらいから、サーシャのブーツで踏む分には大丈夫なはずだ。いざとなったら突き飛ばして転倒させることもできるだろう。たとえ自爆のリスクがあるとしても、それくらいやらなければ勝利は覚束ないだろう。
叩き割る前の窓ガラスに映った自分の顔が、なんだか酔っ払ったヒステリー女みたいに思えた。鬼や山姥みたいで、自嘲と滑稽さのあまりに笑ってしまう。精神状態が一線を越えてしまっていることは自覚しながら、パッションのままに廃校一階の窓ガラスを砕き続ける。
ひょっとしたら、これまで自分を縛っていた規範意識を壊して、自分自身の過去に復讐したかったのかもしれなかった。合理的な作戦のりゆうだけでなくて、過去や規範意識の象徴に八つ当たりしているのだと、頭の中の冷静な部分でわかっている。そんな自分の変に冷静な性格が少し悲しかった。
9
何事かと二階の窓から顔を出して様子を見れば、あの女が窓ガラスを割りまくっている。一瞬あっけにとられたが、様子からしてキレているのだということくらいは見ればわかる。
ぱっと見の大きくはなくともちょっとしたL字型の校舎の、一階部分の片側ほとんどがやられているようだった。教室側までは窓の鍵の封鎖ができていないし、あの調子ではたとえ鍵だけ固めたとしても、いざとなれば体当たりで内側から破って飛び出すであろうことは想像に難くない。
(だがしかし!)
鬼である彼は、L字型校舎の彼女から死角になっている部分から足早に階段を駆け下りて一階に向かう。何となく、早く顔を合わせてみたい衝動に駆られたのかもしれなかった。
実は一階部分のスイッチのある部屋は最初に探したのだ。彼女は校舎内のスイッチの場所を事前に知らされているのだから、(一階にスイッチの部屋があるならば)その近辺の窓から侵入してくる可能性を考えたからだ。
情欲だけでなく、男の根源的な本能的な何かを刺激されて胸が高鳴るようだった。それはまさしく知能生物としての、闘争と遊戯の本能だったのだろう。歴史学者のホイジンガではないけれども、人間には遊びやゲームの本能と欲求があって、単に軽い遊びだけでなく、政治経済や戦争や学問、恋愛まで含めた文化や文明そのものがそんな人間(人類)の性格を反映しているのだそうだ。
一口に言って、おそらく男はそのとき「楽しい」と感じていたに違いない。
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